第8期・自然環境市民大学修了式/記念講演


いまこそ抜本的転換を

−これからの河川行政−

講師:今本 博健氏

(京都大学名誉教授
元・淀川水系流域委員会委員長)


  (2011.3.9.:パル法円坂)


はじめに
 私は、学生時代に河川工学を専攻し、水の流れについての研究を始めたが、その後も学生時代からのテーマを引き継ぎ、ひたすら実験や観測を続けた。また、防災研究所に長く身を置いたことから国内外の多くの水害調査に参加した。

 2001年に京都大学を定年退官した後は淀川水系流域委員会委員として、河川整備計画策定の審議に加わり、河川整備の在り方について考えさせられた。最近は、あちらこちらのダム反対運動の現場を訪ねることが多く、先週も長崎県佐世保市近くの石木ダムへ行き、今週は久しぶりに内海ダムへ行くことになっている。

 本日は、是非これを伝えたい、というテーマを選ばせてもらったので、気合いを込めてお話ししたい。
 今日、私が選んだテーマは、最初は 「これからの河川行政」 ということだったが、「今こそ抜本的転換をしてほしい」 ということを、二つお話ししたい。その一つは、「治水に関する考え方」、もう一つは 「堤防に関する考え方」 である。

 ■ 日本のこれまでの川づくり

 まず、これまでの川づくりをざっと振り返っておく。
 日本では、原始時代終盤の稲作の始まりとともに洪水に悩まされだし、湿田から乾田に移ることで、洪水を避けようとした。このころから、乾田への灌漑の必要性から、日本の川づくりが始まったといって過言ではない。
 ヨーロッパには各地にローマ時代の水道の遺跡が残っており、日本にも、古墳など多くの古代の歴史遺産が残っているが、なぜか、河川については見るべき遺産は遺されていない。
 大和王朝が成立したころは、古事記や日本書紀には仁徳帝により茨田(まんだ)堤が築かれ、難波堀江が開削されたと書かれていることから 「治水の曙」 であるが、それがどこなのか、形として残っておらず、今は全く分からない。

 以後、平安時代、日本の文化はどんどん栄えてくるが、河川については残っていない。たとえば、平安京を作るとき鴨川を付け替えたと長い間いわれてきたが、最近の研究では、当時、それだけの技術力は無かったということが分かってきている。

 ところが、中世終盤、戦国時代にはいると状況は一変した。戦争に勝つためには洪水を少なくして収穫を上げなければならず、戦国武将により本格的な治水が始められた。
 戦国武将はみな名治水家であったが、その代表が武田信玄と豊臣秀吉で、両者のやり方は違っていた。
 信玄のやり方は、霞堤だとか、信玄堤という水制工をもちい、どちらかといえば流れを上手に扱った。
 ところが秀吉は、徹底的に力でねじ伏せている。例えば、巨椋(おぐら)池に流れ込んでいた宇治川を全部断ち切って、付けかえた。
 秀吉は、高松城の水攻めや墨俣の一夜城などに見るように水を扱うことが好きで、見事にやっている。
 この、信玄のやり方と秀吉のやり方という二つの流れが、ずうっと今まで続いている。

 近世になって、幕藩体制の確立とともに、幕府や藩による治水が進められた。
 当初、家康は信玄につながる伊奈流(関東流)を連れて行って、利根川をやらせていた。
 8代吉宗のとき、技術的に劣っていたわけではないが、田沼意次が仕切った印旛沼の干拓がうまくいかず、それで、紀州から秀吉につながる井沢流(紀州流)をよびよせ、ことに当たらせた。
 このほか、川村孫兵衛、野中兼山、成富兵庫重安など、江戸時代には名治水家が輩出した。

 近代の明治維新後、政府は欧米各国から多くの技術者を招聘して、当時の最高の技術を学ぼうとしたが、河川については、なぜか、河川の状況が全く異なるオランダの工師を招いた。
 治水は国の根幹に関わることで、下手に列強に日本の治水を任せれば植民地化に繋がりかねず、その点、商業国のオランダは、領土的野心も少ないと考えたのかも知れない。
 当時、ヨーロッパでは河川工学の教科書もあったので、オランダ人はそれを学び、さらに、地形の似たインドネシアに滞在して土石流の研究をして日本へやってきた。

 日本政府の要請もあっただろうが、オランダ人がやったのはおもに舟運のための低水工事であった。
 しかし、日本で水害が集中した時期というのは明治維新の頃と昭和の戦後で、どちらも、森林が荒れていた。特に戦後は台風の直撃を受けたことが大きい (最近は大水害が少ないが、これは、たまたま台風の直撃を受けなかったからに過ぎない)。

 明治時代に水害が多かったのは、江戸時代には庶民は許可なしに家を建てられなかったものが、明治になって自由化され、猛烈な勢いで山の木を切ったからだが、これを受け、即座に、今までのオランダが教えた低水工事から高水工事へ変わっていった。

 それが、今も続いている。
 しかも、昔は工事といってもたいしたことはなかったが、特に戦後になってから、土木の施工技術が猛烈に進んだ。その一番極端な例が佐久間ダムで、今までにない大きな土木機械が導入され、およそ考えられないような早さでダムを造った。
 このダムは当時大歓迎され、記念切手まで出来たが、今、砂に埋まって泣いている。こんなことは、当時、分からなかった。

 そして、現在、今までやってきたことが環境に大きな影響を及ぼすということが問題になっている。

 私が学生だった頃の河川工学における「環境」というのは、水質と水温で、生き物はいなかった。
 あと、土砂の問題が大きかった。

 土砂の問題は河川工学のもっとも得意とする分野ではあるが、これが、非常に、理論に乗ってこない分野である。
 例えば、ダムにたまる100年分の土砂量を推定するには、周辺のよく似た地形の河川でのダムへの土砂堆積量を測定し、それを流域面積に当てはめて求めるが、しかし、問題なのは大雨による斜面の崩壊で、その時、大量の土砂が押し寄せてくる。それが、どの位の量になるか、これが分からない。だから、予測に失敗する。
 今、日本のダムの多くはそれに悩まされ、まさに問題になっているところもある。

 私がちょうど大学を退官するころ、ダムにたまった土砂をどう取り除くか、排砂技術というのが大きな問題で、実験的にやっているところもあり、たとえばバイパスを作ってやろうという、そういうところもある。
 いまの国土交通省の河川局は、これだけ研究して、排砂技術についてはおおよその目安がついた、といっている。しかし、私の見方は全く逆で、排砂については全くめどが立たないということが分かった。
 すでに出来たダムに新しく排砂用のバイパストンネルを作るのには莫大なお金がかかるし、しかも、それは根本的な解決策にはなっていない。
 そうすれば、あとは、たまった土砂をひたすら外へ掘り出すしかない。しかも、一度大雨が来れば、また、ドカッとたまってしまう。
 ということは、あと50年ほどすれば、日本には土砂がたまったダムが続出する。100年後はどうか。300年後にはほとんどのダムには土砂がたまってしまっているだろう。1000年後 ― もう、持たないだろう。

 この国は、1000年後もきっとまだ存続しているだろうから、そうなると、川というものをもっと考えないといけない。
 今日は、そういう観点から話をすすめていきたい。

■ 河川法改正の流れ