第8期・自然環境市民大学修了式・記念講演
 今本博健氏:いまこそ抜本的転換を ―これからの河川行政―
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 ■ 河川法改正の流れ

 我が国における河川法の大きな流れを示すと、図のようになる(図の拡大)。
 まず、明治29(1896)年に河川法が制定された。
 法律というのは、時代、時代で世の中の要請を受けて変わっていくものだが、最初の河川法の主たる目的は治水であった。これは明治元(1868)年の維新後、多くの河川で大水害が発生したため、直轄事業として河川改修を行うには法的裏付けが必要であった為である。

 本来、河川法はもっと早く制定したかったが、当時、明治政府はとても貧乏で、財力がなかった。
  ところが、明治27(1894)年に日清戦争があり、日本はうまく勝って、賠償金を手に入れた。そのお金を使って淀川の改修ができるめどがついたというので、法律が成立したのである。

 このときの「淀川改良工事」では、@宇治川の付替、A毛馬洗堰・閘門の建設、B新淀川の開削、C瀬田川の浚渫、洗堰(南郷)の建設などが行われ、これを主導したのが 「淀川の父」 とも呼ばれる沖野忠雄であった(図の拡大)。

 地元では当然反対があったが、これらの工事で洪水は無くなる、下流にとっては水ももらえるということで工事を進めたが、大正時代に大洪水が起こり、琵琶湖周辺は水浸しになった。
 県議会では沖野さんを呼んで、「あなたは、この工事でもう浸水しないといったのに、浸水したではないか」 と追及すると、沖野は、「そんなことは初めから分かっていた。ある程度以上の雨が降れば浸水するのは当たり前だ」 と答えた。
 「なぜそう説明しなかったのか」 といわれると、「それは、聞かれなかったからだ。質問されれば、きちんと答えていた」 と返答した。
 昔の役人は気概があったと思う。

 昭和39(1964)年に河川法は大改正された。
 これは、本当の大改正で、明治の河川法の時代にそぐわなくなった点を改めるもので、法目的に 「利水」 が追加された。

 このとき、切実だったのが琵琶湖の総合開発だった。
 新規利水の開発とそれへの見返りとしての滋賀県内の社会基盤の整備を、25年の歳月と当時のお金で1兆8000億を投じて行う並々ならぬ事業で、これをを行うために、何が何でも 「利水」 をいれた法律の改正が必要だったのである(図の拡大)。

 この次に大きな問題になったのが、長良川河口堰の工事であった。
 長良川河口堰の建設は生態系に及ぼす影響への懸念から環境派の批判を呼び、公害問題で高まっていた公共事業への批判と相まって、全国的な建設反対運動となった。しかし結局は建設され、環境面からの反対に限界のあることを示した(図の拡大)。

 しかし、この工事が平成9年に河川法の改正につながったともいえる。
 明治29年の河川法制定、昭和39年の河川法改正は、いずれも 「何かをする」 ためだったが、高度経済成長期に 「列島改造」 が計画・実施され、公共事業への社会的批判が高まるなかで、河川局も反省したのか、平成9(1997)年の改正が行われ、「河川環境の整備と保全」 を法目的に追加するとともに、「地域の意見を反映させた河川整備の計画制度」 が導入された。

 私は、この平成9年の河川法改正前後が、河川局の人間がいちばん真人間に近づいた時期で、今、また、離れて行っており、今度、いつ戻ってくるのかと思っている。
 長良川河口堰の工事は、河川局の人間にとって、非常に大きなインパクトを与えた工事だったといえる。

 いま、この長良川の洗堰を開門しようという動きがある。
 名古屋市長選挙と愛知県知事選挙で、河村さんと大村さんが共同マニフェストで、「河口堰の開門調査を行う」 という一文を入れている。
 河村さんは民主党に対して 「マニフェストを守れ」 と強くいっているから、もし当選したら、自分も守らざるをえない。
 長良の河口堰は水資源公社・河川局にとっては牙城であって、これを開門することは彼らにとって苦痛に耐えられないことではないか。
 河川局は、今、戦々恐々としている。

 この講座は環境に関する講座であり、この問題には非常な関心を持つべきである。

■ 新しい河川整備の計画制度


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