今本/記念講演−3」

第8期・自然環境市民大学修了式・記念講演
 今本博健氏: いまこそ抜本的転換を ―これからの河川行政― (3)
 ■ 新しい河川整備の計画制度

 平成9年の河川法改正で大きく変わったもう一つが、計画制度である。
 つまり、それまでの工事実施基本計画を、河川整備基本方針と河川整備計画の二本立てとし、しかも、整備計画を決める上で、必要に応じて学術経験者や住民の意見を聴きなさいということになった。(図の拡大)

 しかし、実際には 「どう聴くか」 や 「意見をどう取り扱うか」 が河川管理者の裁量に委ねられたため、整備計画への一般意見の反映につながらなかった面がある。

 そんな中で生まれたのが、「淀川水系流域委員会」 である。


 ■ 淀川水系流域委員会

 実は、全国の一級河川で河川整備計画案を審議するための流域委員会が設置されたが、単に法の要件を満たすためだけのものが大半であった。
 そうしたなかで、河川法改正の趣旨を活かそうという並々ならぬ意欲をもった当時の淀川河川事務所長の宮本博司氏が中心となって設置されたのが、淀川水系流域委員会であった。

 私は、「淀川流域委員会」 は4つの時期に分かれるとおもう。


<準備会議>
 まず、準備会議の時期。
 寺田武彦さん、芦田和男さん、川那部浩哉さん、米山俊直さんをメンバーとして、4回の準備会議をひらき、ここで、委員会の骨格が作られた。
 すなわち、委員会のあり方として、組織構成、委員の選定方法、会議および会議内容(議事録)の公開とその方法などにおいて、従来にない新しい方式を導入し、今後の公共事業の計画づくりのモデルとなることを目指した答申を行うとともに、自薦・他薦を含む候補のなかから委員を選考した。
 また、事務処理は、中立性を保つため、外部の民間会社に委託する。

 このようなことは、すべて準備委員会がやったことになっているが、実際にことを動かしたのは、この会議を作った宮本博司氏だったと思う。

 この会議が偉かったのは、委員を選考したことだと思う。
 先日、川那部さんにお会いしたとき、あなたはなぜこの会議に本気になったのかと聞いたら、自分が本気になったのは、流域委員会の委員の選考を始めてからだ、と答えた。
 ふつう、この種の会議の委員を選考する場合、当局は、定員10人なら10人しか推薦候補をださず、実質、選考させないものだが、流域委員会の場合、あらゆる分野から自薦・他薦をふくめ300人ほどの候補が挙ってきた。
 それで、非常に真剣に委員の選考を行った、という。

<第1次委員会>
 第1次委員会では、「河川整備のあり方」 を提言した。
 今から思えば、この時期が、適度な緊張感のもとでの河川管理者と委員会との蜜月関係にあったと思う。
 準備会議の答申が尊重されるなかで、キャッチボール方式、委員による意見の執筆など、委員会自体が進化した。
 そうしたなかで生まれたのが 「提言」 である。「いかなる洪水に対しても壊滅的被害を回避する」、「水需要を管理して、新たな水資源を開発しなくていいようにする」、「ダムは原則として建設しない」 などが提言され、それがダムへの厳しい意見につながっていった。

 河川管理者との友好的な関係で始まった委員会であったが、ダムについて 「中止することも選択肢の一つとして、抜本的な見直しを求める」 との意見書を提出したことから、両者間の緊張が高まりだした。

<第2次委員会>
 河川管理者が 「淀川水系5ダムの方針」 を突如発表したことから、一触即発の緊張の中、委員会はダムの審議に明け暮れた。
 委員会は、大戸(だいど)川ダムと余野川ダムの 「当面実施しない」 との方針に賛成したものの、丹生ダムと川上ダムの 「実施する」 との方針には賛成できないとした。ただし、天ヶ瀬ダム再開発については琵琶湖の環境保全に資することから、放水量の増大方法および増大量が明らかにされた時点で再度意見を述べるとの条件付で賛成している。

 委員会のダムへの意見が厳しかったからか、緊張が高まり、河川管理者は委員会を休止した。

<第3次委員会>
 レビュー委員会によるこれまでの委員会活動への評価を経て、第3次委員会が発足したが、委員の選考を河川管理者が主導したことから、それまでの委員会と基本的に異なるものとなった。
 委員会と河川管理者間の信頼関係が薄れるなかで、委員会のなかでも河川管理者の方針に賛同する委員と第2次委員会までの方針に賛同する委員とが対立するようになった。
 そうした状況のなかで、委員会発足直後に示された河川整備計画原案について、河川管理者が示した資料をもとにその不備を徹底的に追及し、整備計画の再提示をもとめた委員会は見事であった。
 河川管理者は、委員会の意見を待たずに河川整備計画案を作成し、委員会を休止した。
 名目上 「休止」 とはいうものの、実質は廃止で、次に出来る委員会は流域委員会という名前すら使わないだろう。

 流域委員会はこのような形で終わったが、この委員会が残した功績は非常に大きい。
 その一つの例として、ダムの問題がある。

 淀川水系には図に示すようにいろいろなダム(流量調節施設)があるが、これらについて議論し、真っ先にダメになったのが猪名川の小さな支流に作られる余野川ダムで、早ばやと廃止の方向に向かった(図の拡大)。

 その次に問題になったのが大戸川ダムである。

■ 大戸川ダムをめぐる攻防


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